インターン久光展示レポート:長谷川美祈 写真展「Internal Notebook」クロージングアーティストトーク

長谷川美祈さん写真展「Internal Notebook」の企画展が11/3~26に開催されました。11/3~12では [part1] として5名の方の物語・背景が展示されました。オープニングイベントではその内容を語って頂きました。詳しくはこちらにございますので、ぜひご一読ください。

期間中展示入れ替えを行い、11/15~26には [part2] として4人の方についての展示が行われました。クロージングトークイベントが行われた際にその内容について詳しくお話をして頂きましたので内容を一部公開致します。

©NATSUMI HISAMITSU / REMINDERS PHOTOGRAPHY STRONGHOLD


展示が行われた11月は厚生労働省が決めた児童虐待防止推進月間にあたります。虐待という問題は近年でようやくその概念が広まりましたが、まだまだ社会的に目を向けられていない現状を抱えていると言えます。虐待という言葉だけが成立し、実態自体はよく知られていないことが多いのではないでしょうか。1年の中のひと月でも国が定めた対策があるのは少なからず問題がそれだけ起きているということでもあります。そしてその分人が関心を持てる社会を作ろうとする働きかけでもあるのです。


【撮影対象とダミーブックの変遷】
長谷川さんが虐待をテーマに制作をしたのは、自分自身が虐待をしてしまうのではないかという疑いが動機の一つでした。そして虐待をしてしまう親たちの気持ちがわからなくはないと感じていること、そして虐待とは一体どういうものなのかを視覚化したいと思ったとのだといいます。

初めの頃は、長谷川さん自身の子育てをしながら感じていた不安や孤独を写真集の最後に入れていました。実際に虐待をしてはいない、不安を抱えている自身のことを表現するだけではリアリティがないのではないかと考えるようになりました。その時から違う表現をしなくてはいけないと思っていたそうです。

自分のように虐待をしてしまうのではないかという不安を抱えているお母さん、虐待をしてしまったお母さんに取材をして写真を撮らせてもらいたいと思うようになりました。虐待をしていることに気づいていないお母さんと、虐待をしているという話をできないお母さんを理解しようとしたのです。そしてそれに必要なのはインタビューをして実際に話を聞くことだと感じることになります。

 

©NATSUMI HISAMITSU / REMINDERS PHOTOGRAPHY STRONGHOLD


最終的には自分が虐待をしてしまうかもしれないという感覚からうまれた表現方法は全て抜くことになります。そもそもはそこがきっかけでしたが、事件を調べていく中でその内容を知るだけで涙が出てしまうことがあり、それでは客観的に進めることができないと感じたのです。そして勉強をしました。

知識として、虐待とはどういうものなのか、虐待を受けた人がどんな生きづらさを抱えていくのか。本を読んだり、法的に虐待のことを知ろうとしたり、実際の講習会に行ったり、電話相談のボランティアもしていました。
そしてインタビューをしていくうちに気づいたことがありました。私は虐待をやってしまうかもしれないけどやってはいないであろう。実際にやってしまった人たちにはそれなりの理由があって、やってしまうかもしれない自分と、やってしまった人と、やられた人、それぞれのストーリー・体験が違うのだということを知りました。
そしてそれを実は誰も気づいていないということが大きな問題だったのです。だめな母親、虐待されてかわいそうな子ども、と
カテゴリーに当てはめてしまう傾向がありました。1人ずつのストーリーが必ずあるのです。それに気づいた時に自分の気持ちを入れる必要はなく、1人ずつの背景を伝えることが必要だと思い直したといいます。

 

©NATSUMI HISAMITSU / REMINDERS PHOTOGRAPHY STRONGHOLD


インタビューをなかなか進めることができない時期もありました。その期間はとにかくできることをということで虐待事件現場に足を運びました。そこはあくまで日常が流れる場所でした。虐待が起きたなどとは思えないほどのありふれた光景の一つだったのです。一時はその現場写真のみで写真集をまとめていました。写真を羅列し、最後に文章で事実を綴りました。写真と言葉が離れていることで、初めは気づかないまま風景の写真だと思いながらページがめくるが、それが文章で明かされた時に改めて戻って観ることで初めの印象とは違う感覚を持てるようなものとして提示し家庭内で起こる虐待は見えてこないもの、どれだけ自分たちは現実に起こっている問題を見ようとしていないのか、何もせずにきたのかということを本の中で体験できるようにしていました。しかし、日常の中に苦しみの現場があることを知ることも大切なことではあるが、更に本当にそういう苦しみを持っている人が存在しているのだと知ることが重要だと気付いていきました。

また電話相談ボランティアをしていた時にも、得たものがたくさんあったといいます。自分自身が母親であることや、相談相手は主に大人たちであったことから、親を救うことができれば助けられるのだと考えていました。しかし一番危険な立場にいたのは、本当に救うべきだったのは子どもたちだったと気付いたといいます。

電話相談ボランティアの講座の最後に「なぜ」それ(電話相談のボランティア)をするのかという問いがあり、その答えとして長谷川さんは過去のこんな出来事を語ったといいます。
幼稚園の頃、首の折れたスズメがいて、どうにか助けようと幼い頃の長谷川さんは考えました。家に連れて帰ろうと決め、翌朝登園するとそのスズメはいなくなっていました。それは大人たちが死んでしまったのだという判断をして行なった行動でした。しかしその頃の長谷川さんには、どうしてスズメがいなくなってしまったのか、その「なぜ」がわからないまま、理由やその実態に触れることのないままになってしまった問題が苦しく、心地の悪いものであったのです。助けられなかったことも、最後まで見なかったことも、弱いもの・傷ついたものにたいして自分がなにもできないまま、知らないうちになくなってしまうことをなんとかしたいと感じたのです。その考え方が今も根付いているのです。

写真どうこうよりも人として何がしたいのかを考え、自分が伝えたい
ことが写真表現から遠い位置にあったものでも伝えることできると思ったのです。 虐待という問題は本来写真家が調べることとは遠い場所にあるものだけど、本当にそうなのかどの問題についてでも繋がっているのではないかと感じたそうです。

写真集の表紙には作中の1名が日記として実際に使用していたノートの表紙ををそのまま起用しています。なぜノートにしたかという問いについては、インタビューをした方たちは辛かったことや精神的に受けた痛みを日記やメモのようなものとしてノートに綴り、人には話せないことを書き留めていました。彼らの心の中のノートがこの写真集なのだと語られました。

 

©NATSUMI HISAMITSU / REMINDERS PHOTOGRAPHY STRONGHOLD


インタビューをする際には、それまでに作られたダミーブックを持って伺い、何がしたいのかということをきちんと伝えることをしていたといいます。そうして実物を見せることで趣旨を具体的に伝えることができ相手にも理解してもらうことができたのです。そして例えば「それなら自分を表せるものは原画だから」と、実物を提供をしてくれたり提案もしてもらえるようになったといいます。そうして共同作業のようにして作られました。

そして形になっていった写真集を実際に他者に見てもらう機会があった時に、見ている人の反応として、テンション(印象の強い写真)ばかりで見ている人が疲れてしまったり、観た時に言葉にできない状況になっていることに気がつきました。その時、対話ができない本では意味がないと考え、リリース(テンションの逆の意)を加えることに変更しました。イメージの提示の仕方を変えることで読者に想像する間を作ったのです。

 

【雨宮ちふゆさん】
[part2]のクロージングイベントでは今回のプロジェクトに参加をしていただいた、当事者の1名である雨宮ちふゆさん人にお話を伺いました。
長谷川さんから連絡をもらってからの心境は?:
取材を受ける頃は無理もしていたし、自分自身のことはもう諦めていて、もはや自分にしか解決できないものであると思っていました。しかし同じような体験が他の人にもあるのだということをネットワークの中で知って、自分自身で話したいと思うようになったといいます。話そうと思ったのは自分自身のためというよりはいつか同じような環境で苦しんでいる人たちの何かのサンプルに自分がなれるならいいなという気持ちだったそうです。

今回協力をしていただいた雨宮さんですが、この問題について乗り越えたわけではなく、いま現在も思い出していないこともまだまだあり、虐待について自分のことのように感じることができず、受け止めきれていないから、客観的に見るしかないのだといいます。

雨宮さんの場合は暴力ではなく、精神的虐待を受けてきていました。幼い頃から耳にしていた両親の喧嘩をする怒鳴り声の記憶。そのため聴覚から恐怖が大きいのだといいます。同じ空間の中で何かが落ちれば確認しないと安心できなかったり、自分でも驚くくらい驚いてしまうことがあるといいます。自分でも恐ろしいと感じるほどの悪夢をみてしまい、快適な睡眠をしたことがなかったり、関連するニュースを見るとどうしても気になり、特に犯罪を犯す側の心理が気になるのだと語りました。

 

©NATSUMI HISAMITSU / REMINDERS PHOTOGRAPHY STRONGHOLD


【わかったつもりでいること】
実際、長谷川さん自身は当事者のたちからは離れた位置にいる人ということになります。しかしそういう人がどれだけ本当のその立場にいる人たちに近づけるのかが重要なのだと後藤氏はいいました。知りたいと思う人がもっと増えていく必要があるのです。

その問題について完全に理解をするということはできないのは頷くことができます。ただわかった気になってしまっている人が多いことが問題なのです。わからないと思っていない。わかった気になっているから、何も変わらない、進まない。その人がどういう風に辛いかを聞こうともしていない。わかった気になって理解しようとしないことが問題なのだと長谷川さんは語りました

わかった気になっている人はきちんと話を聴こうとしません。そのためその人から発された言葉をそれが全てだと思い込んで、本当のところにたどり着くことができないままになってしまうことがあるのではないでしょうか。きちんと安心して何があったかを話せる場を用意しないまま、その場でただ聞いたことが全てだと思ってしまうのです。

社会的なことをテーマにしているものに関しては思い込みというのが常につきまといます。パーソナルなストーリーとは個人的な問題ということではなく、大きな括りの中に個人のストーリーがあることを理解することなのです。
自分の中の潜在意識や、思い込みは横に置いておかないと本質からずれていってしまいます。自分が感じていた、思っていた、考えていたことが、本当はそうではないかもしれないという疑いを持ちながらその問題を見つめることが必要で、長谷川さんはそのそうではないかもしれないということを表現として提示をしたのでした。本質は見えないことの方が圧倒的に多く、しかしそれこそが重要であることを忘れてはいけないのです。そしてそれと共に作品や写真集が観た人にどういう影響を及ぼすのかということも考えなければならないことはもちろんです。

当事者の人たちは自身により近しい問題のため、深く理解をできるかもしれません。しかしもっと重要なのはその問題から遠い位置にいる人たちがより深く理解することなのです。
そしてそれは虐待だけではなく全ての事柄においていえることです。

文責:久光菜津美(RPSインターン)
編集:長谷川美祈