写真のなかの真実を探る・古賀絵里子「浅草善哉」
「写真のなかの真実を探る」と題して、先日トルコのブルサでプレゼンテーションを行ってきました。ご紹介した写真家の方々のなかには、これからPRSのイベントでゲストとして参加して頂く方がいます。10月15日のCuratorial Talk 二人の写真家 イン・アングと古賀絵里子でトークのゲストに参加して下さる古賀絵里子さんはそのお一人でしたし、11月17日に言葉なき対話 第1回 『ポートレイト Tatsuki vs. Arbus』で対話のゲスト写真家として参加して下さる田附勝さんもそのお一人です。
今回はそのブルサフォトフェストで実際に行ったプレゼンテーションから、これからゲストで来て頂くこのおふたりの部分をこちらでご紹介したいと思います。
「写真のなかの真実を探る」は継続中の個人的な写真リサーチプロジェクトです。写真は真実を捉える媒体であると言わていますが、しばしば真実とは言えない場合があるのではないかと思っています。写真家のものの見方が表現されているだけだったり、写真家の主観的な理解、解釈が写真に影響を与えていることが多いと思うためです。また、事実を見たり知る事なしに、すでに写真家のなかで出来ているストーリーにあわせるために写真を集める行為をしているのではないか。そうだとしたら、写真とはなんなのか?写真には本当に真実が含まれているのか?それらのイメージは被写体の声や感情を反映しているのか?
また、これまでに一緒に仕事をしてきた写真家らの仕事は、社会や個人にたいしてなんらかの形でその被写体に向けた意識を促すものでした。写真家たちの被写体にかける情熱と活動力に感謝するとともに、尊敬の念を抱きながらも「なぜ、あなた方写真家は自分が撮影する対象にそこまで自分自身を賭けているのか、それは個人的な繋がりか結びつきのようなものがあるからなのか?被写体とそこまで親密になるには、なにか特別な秘密があるのか?また、ときに個人的すぎたり、日本においてはタブーと見なされる可能性のある、それらの写真に公共性を持たせること、まったく関係のない第三者たちとそれを共有する意味、見せる必要性とはなんなのか?」という疑問を持つようになりました。
ここで紹介する写真のシリーズは(今回このサイト上では二人だけを取り上げますが、本来トルコでご紹介したのは五名の方です)、とくに被写体とのかかわりが極度に深いと感じた写真家によるもので、写真家と被写体の間の距離が近く、それゆえに被写体をより深く理解することを可能にし、それが写真家の仕事、作品に表れていると思われるものです。また、写真家のイメージが被写体の気持ち、あり方と完璧に調和している。写真家と被写体のそれぞれの思いや、あり方が写真という形になって具現化している。そのような部分にインスパイアされて新しい写真の見方が出来る。そして、この作品が写真家と被写体の間で完結し、それ以上どこに行く必要もないだろうという気さえするものですが、そのような関係性のなかで存在するに留まらず、公共の領域へともたらされていくのです。
トルコでも一番目に紹介したのが古賀絵里子さんと彼女の「浅草善哉」です。全体をスライドショーで見せています。Q4にあたる写真は一枚だけでまた映し出しました。それでは、ここから実際のプレゼンになります。
2003年、浅草の三社祭で偶然出会った老夫婦。善さん、はなさん。いつしか二人が暮らす下町の長屋へ通うようになり、その日常を六年間にわたって写真に綴りました。二人のもとを訪れるたび、言葉にできない、でも大切な何かがはっきりとそこにあるのを感じました。その大切な何かを残したい。その一心から浅草へ向かいました。
コップ酒の気分で二人の奥の奥にズンズン沈みこんでいくと、浅草という表層がパラパラと剥がれ、そこはどこだっていいような気がしました。落語を思わせる善さんの口上と表情、はなさんの飄々とした雰囲気。その場が放つ独特の存在感は、訪れるたびに畏れの入り混じった悦びと、心に救いを与えてくれました。
二人の略歴は日々の想い出話をもとにしてまとめたものです。
経歴はその人の多くを語ることはできません。過去が記憶として語られるとき、それはつくられた物語としてであり、経歴も写真もその人の一部分でしかないのです。二度とない瞬間をともにし、私を受け入れて下さった善さんはなさんへ、心より感謝いたします。
写真以上の言葉を私は持ちません。誰もが観ることを通じて、見えない何かを感じて頂ければ幸せです。
写真集『浅草善哉』あとがきより抜粋
ここからは古賀さんへの質問と彼女からの質問にたいする回答です。
Q1: なぜこの被写体(あるいはテーマ)にコミットしているのですか?それはあなたと個人的な繋がりがあるからですか?あるとしたら、どのような?またない場合でも、繋がりが出来た背景などがあれば教えて下さい。
二人(善さん、はなさん)に出会って精神的に救われた。それまで自分の好きな町、「浅草」をテーマにモノクロで撮影していたが、自分が感じる実際の浅草と、撮られた写真との間にズレを感じていた。人生を背負って歩いているような町「浅草」を、表面的にしか撮れないもどかしさに苦しんでいた頃、二人に出会った。
肉親でもない二人とは偶然の出会いだったが、二人のもとを訪れるたび、言葉にできない大切なことをたくさん感じた。それを何とかして形に残したいという一心から、2003年から2008年まで約6年間にわたって撮影を続けた。写真を撮りたいというよりも、二人に会いたくて通った歳月だった。
Q2: 被写体と親密な関係を築くには、なにか特別な秘密があるのでしょうか?あるとしたら、どんな?ないとしても、あなただから築く事を可能にした関係性がありますか?あるとしたら、どういうことでしょうか?具体的な事例があったら教えて下さい。
相手のことが好きであること。愛情と尊敬(畏怖)の気持ちをいつでも持っていること。相手を心で讃えて撮影する事、相手がいやがる事は絶対にしない。
撮影のモデルとして向き合うのでなく人として深く繋がること。信頼関係がなければ自分も、相手も心が開けない。
Q3:これらの記録は第三者にとっては意味のないものかもしれません、だとしたら、これらの写真を撮り続ける意味は?またすでに公共の場(オンラインやウエブサイトも含む)で発表されている場合、何故、その必要があるのでしょうか=自分以外の人間と、この仕事を共有することの意味はなんでしょうか?
意味のないものと思ったら撮影できなかった。自分が救われたように、写真を通して救われる人がいると信じているから続けられた。
目で見えないものを全身で感じ取り、イメージ化できることが写真のすごさだと思う。
言葉にできない、でもはっきりと流れる「生と死」の中での営みは時代を越えて共有できるものだと思う。
この作品を見て深い部分で何かを感じてくれる人が一人でもいれば、それだけで撮影させてもらった意味がある。
略歴をまとめたことも、写真にできないことを言葉で残したいと思ったから。写真だけでも作品は成立しているが、二人の略歴も『浅草善哉』にとって大事な要素である。
Q4. 写真のなかの真実を探るという意味で、今回の作品シリーズの中で、「真実」が写し込まれている最たるイメージをあげるとしたら、それはどれでしょうか?また、その理由を聞かせて下さい。
こちらがその一枚です。
善さん、はなさんの間柄を一番ストレートに表している写真だと思うから。二人が支え合って生きて来た軌跡、また今そこに存在する二人、またそこから先のことまで濃密に物語る一枚だと感じる。
以上、写真のなかの真実を探る・古賀絵里子「浅草善哉」(トルコ・ブルサフォトフェストでのレクチャーより抜粋)
10月15日のCuratorial Talkではさらにみなさんからの質問なども交えて写真への理解を深めていけたらと思っています。有意義な時間にして頂けたらと思っています。尚、当日は古賀さんの本「浅草善哉」をご用意、ご本人による署名も可能です。是非、参加申し込みの際にご希望の方は↓選択してお申し込み下さい。
Curatorial Talk 二人の写真家 イン・アングと古賀絵里子