ヨルグ・コルベルクによる序文: 奥山美由紀 写真集「Dear Japanese」

© MIYUKI OKUYAMA / DEAR JAPANESE

奥山美由紀 写真集「Dear Japanese」。先日よりRPSでも特典付きのCortona On The Move版のお取り扱いが始まりましたが、本の序文を書いてくれたのはJörg Colberg(ヨルグ・コルベルク)さん。ヨルグさんはアメリカ在住で、自身が2002年から運営するサイト「Conscientious Photo Magazine」での写真集や現代写真のレビューなどで主に活動されている写真専門家です。2016年度のイタリアの国際写真フェスティバル「Cortona On The Move」では、ヨルグさんが審査員としてノミネートされた5冊のダミーブックの公開審査が行われ、「Dear Japanese」がグランプリに選ばれました。こちらの写真集は10月5日〜8日に天王洲アイル 寺田倉庫で開催されるTokyo Art Book Fair 2017でも展示・販売されます。会場で実際に手に取ってご覧になってみてください。

写真集は犬に似ている。犬には驚くほど多くの種類があるように、写真集も様々だ。写真集にはあらゆる形、大きさ、タイプなどがある。チワワとセントバーナードほどの違いが写真集にもあるのだ。どちらも同じ種として基本的な特性は共有していても、大きな違いを持っている。

原則の存在を示す僅かな例外はあるが、すべての写真集が共有するものは、写真が力仕事のほとんどをするということだ。これは写真だけを含んだ本は当然だが、豊富なテキストを含む本にも言えることだ。なぜなら、写真というものは狭義には説明的なものであり、観る者が受け取るのと同じだけ文脈に頼っていて、テキストを含まない、あるいはほんの僅かなテキストのみを含む写真集に相当な挑戦を課すからだ。

特殊性というのは特に達成が難しいものだ。例えば、聖母マリアの肖像は、何も知らない者には単なる若い女性のポートレートでしかない。一方、テキスト無しにこのような特異性を持たせることは不可能なため、広がりのあるテーマやトピックを扱うのは容易になる。我々がこれはマリアの絵であることを知らないまでも、この若い女性の肖像を見ればよく似たような感情に導かれるだろう。それ故、写真集はどうすれば特殊性を得られるのかが問題になるが、それは本質的な問題では無い。アイデアが特殊性を持つために、ある事柄が明白にされるために写真のみでは不可能である時が問題になる。

さらに、特定のストーリーを語るためにテキストに頼るというドキュメンタリーの伝統を受け継ぐ写真集がある。一方、より大きなストーリーや主題をほのめかすために画像を使う、アートの伝統を受け継ぐ写真集もある。主題やそれをほのめかす手法はかなり曖昧なものかもしれない。私がこの「曖昧」という言葉を使うとき、観るものが何が起こっているのかをほとんどわからないという意味ではない。実際、アイデアは明確に形作られることだろうし、同時にそれは単純な言語的描写や説明に抗うものだ。

ある程度、ストーリーの語り口やほのめかしの方法は、個人的な好み、対象とする読者、あるいは提示される文脈の問題である。ある手法が別の手法より優れているというようなことはない。しかし、ある文脈を取り上げれば、期待される、あるいは受け入れられる形態の限界があるかもしれない。過去数年の間、写真家たちはどう予想を裏切るのか、あるいは新境地を開けるのかを模索してきた。最近の例を挙げるとすれば、モイセス・サマンの「Discordia」(2016)がある。極めて明確なフォトジャーナリズム的文脈から始まりつつも、決して古典的なフォトジャーナリズムの写真集とはみなされない。その代わり、私が先に述べたアートの伝統の技法を多く使っている。

前述の通り、「アートの伝統」という言葉はあまり有用ではないかもしれないので、さらにくわしく述べるとしよう。写真集の文脈として、影響力の大きかったウォーカー・エヴァンスの「アメリカン・フォトグラフス」(1938)、ロバート・フランクの「アメリカンズ」(1958)を挙げてみよう。どちらの本も写真のすぐ脇にテキストが無いため、読者たちは画像、そして画像の配列のみからすべての情報を集めなければならない。エヴァンスの写真はアメリカ合衆国農業安定局(FSA)の委託を受けたもので、そのいくつかは明らかに非アートの文脈に由来している。しかし、本の中を見ればその特定の文脈は完全に消滅している。

奥山美由紀の「Dear Japanese」は、大変明確な手法でストーリーを語るための周知の技法の種々を使った現代の写真集の優れた一例である。一方、この本は直接的な関わりは無いが関連付けられる可能性のあるさらに大きなトピックへの究極的なほのめかしを行っている。これはドキュメンタリーフォトのアプローチが用いられるであろうと想像するようなストーリー、第二次大戦中に日本占領下にあったオランダ植民地のストーリーである。詳しく言えば、欧亜混血の母親と日本人の父親の間に生まれた子どもたちのストーリーだ。日本の敗戦後、この子どもたちは故郷を捨ててオランダへの移住を余儀なくされた。

© MIYUKI OKUYAMA / DEAR JAPANESE

「Dear Japanese」にはテキストが全く無いというわけではない。本の最後には短いテキストがある。しかしそこにたどり着くまでは写真のみがある。つまり、読者は自分自身で何が起こっているのかを見出さなければならないのだ。このような作りの本は通常、読者に(心理的な)作業を求めてくるものだ。

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ストーリーをどう語るか(あるいは伝えるか)に関する決断が、読者にどれだけの心理的作業を課すかに響いてくる。これがあまり議論されることのなかった写真集の特徴だ。「Dear Japanese」のようなよく構成された本の場合でも、読者はそのストーリーを理解するための努力が必要になる。一方で、その努力に対する恩恵は大きいことだろう。

さらには、このストーリーはいわゆる史実のみに重点を置いているわけではない。「Dear Japanese」は歴史の本ではない。これは、歴史、故郷、アイデンティティの広い考えを中心に据えた本であり、この考えがある人にとっては深刻で辛い問題になりうる大きな力を主題としうるのだ。ヨーロッパが世界のあちこちからやってくる難民たちに圧倒されているこの時代において、歴史、故郷、アイデンティティという要素が今私たちが目の当たりにしている議論、つまり自分が育った社会ではない、混乱を覚えるような大きく異なる社会の中で新しいアイデンティティを確立させようとする難民たち、あるいは全く異なる背景を持つ異国人たちの流入にどう自分たちの国のアイデンティティが対処していくのかを考えなければならない受け入れ国が、議論の大方を動かしている。

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「Dear Japanese」の巻末のテキストが、注意深い読者が気づいたであろう歴史的事実を裏付ける一方、このテキストは難民たちの終わりのない問題と同様の問題を受け入れなければならなかった登場人物たちの苦難「この見た目も感覚も大きく異なるこの移住先の社会において、私とは誰なのか」については何も言及していない。

先に述べた観点から見ると、この本がストーリーを語る手法はよく道理にかなっている。写真は伝統、故郷、アイデンティティなどの思考を簡単に表現することはできない一方、写真は抽象的な概念ではなく、明確な表層を扱っている。大変具体的な状況の中に個人を置きつつ、歴史的事実も組み立てて、この本は読者の経験をストーリーテリングの一端とすることによってこれらの抽象的な概念を導いている。本を隈なく見ようとする注意深い読者は、この質問について自ら考えるだろう。「彼らはこの場所にいるであろう人びととは異なるように見える。この人びとがこれらの場所にいる理由は何であろう?彼らが本当にこれらの場所にいるのだとすれば、どうしてここにたどり着いたのだろう?この場所にいて、彼らはどう感じるのだろう?もし私がこのような状況にあったとしたら、私はどう感じるだろう?」

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写真の良し悪しというのは究極的に疑問を投げかけるものかどうかにかかっている。これはドキュメンタリー作品でも同じだ(そうでなければ、その写真は単なるプロパガンダではないだろうか)。まっすぐにアートの伝統を引き継ぐ「Dear Japanese」のような本は、前述のように質問を投げかけることを恐れない。これが、私がこの本の製作が成功していると考える理由なのだ。信じられている事実を肯定したり、事実を教えたりする代わり、この本は読者たちに他者の置かれた状況を考えるよう請っている。すでに述べたように難民クライシスを考えると、はっきりと難民の受け入れを拒否している国であれ、多くの難民を受け入れたために自国のアイデンティティの保持に向き合う国であれ、これは時宣にかなった、多くの国々で求められている行為なのだ。

この本は様々な写真材料を巧みに組み合わせてストーリーを語っている。いわゆるストレートフォトがあり、さらに古い写真、切手、地図、絵などのアーカイブ画像の複製がある。これらの色々なマテリアルを組み合わせ写真集にすることは、特にクリスチャン・パターソンの「Redheaded Peckerwood」(2011年)という広く賞賛され評価された本以来、確立された手法となった。この文を書いている時点で、すでにこの本は2度目の重版になったが、すべて売り切れている(ほとんどの写真集は重版されるどころか、第1刷の完売すら達成できない)。

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やや緩い構成になっている「Redheaded Peckerwood」とは異なり、「Dear Japanese」は明確なロジックに沿っている。それぞれの折丁には異なる紙が使われている。このような構成は読者の理解を助け、パターソンの本ほどには心理的作業を求めない。異なる折丁にはイメージが区分され、これが本の構造となり、読者が容易にストーリーを理解できるようになっている。

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一冊の本の中に異なる部位が明確な区別無しに含まれているとすれば、明らかにそれらには関連があるはずである。読者たちに課せられた課題は、その繋がりを理解することだが、これはそれほど難しいものではない。オランダと見て取れるそれらの風景や建物は、東アジアを示すマテリアルに関連しているはずである。オランダと見える背景に立つアジア的な風貌の人びとは、このストーリー全体に関わっているようだ。この本を読み進むうち、読者は本のページを行きつ戻りつしながらさらなるストーリーの様相を見出し、ただの写真だけではない全体像が展開されるのだ。巻末のテキストは、読者が考えついた歴史的事実を裏付け、見せることのできない様相を充たしている。

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文字通りテキストが本を締めくくる一方、ポートレートの中の人びとに関する結論というものは無い。彼らの人生のごく初期は明らかになったが、その後は想像に任せられている。答えは無い。あるのは問いかけだけだ。読者はその謎を想像しなければならない。生まれた土地から遠く離れた社会に生きるということ、その社会にはいくらかの人種差別があるであろうこと、そしてそれにもかかわらない様々な美点は何かということを。

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これら全ての異なる点において、「Dear Japanese」は我々の時代を映す写真集であり、また我々の時代のための写真集でもある。この本は現代の写真集において確立された語りの手法をうまく取り入れている。その一方でこの本は、人びとが他国へ難民として渡るために故郷を捨てざるを得なかったために受けた、過去数十年の間に大きくなり続け、更に広く偏在するある種の苦しみを語っている。最後にヨーロッパが多くの難民を受け入れたのは、第2次世界大戦の終わりと終戦直後だった。この移動の大きさに関わるようなヨーロッパの歴史は、本の登場人物はほとんど語っていない。しかし今、難民の再度の波が岸に打ち寄せている(文字通り「岸に打ち寄せている」のだ)。そしてヨーロッパは、寛大さからうまく隠された外国人嫌悪まで幅広い反応にもがいている。

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もし歴史が道標であるなら、私たちはすでに解決したと思っていた問題への解決方法を再び見出さなければならないだろう。「Dear Japanese」の様な本はそのための助けになることができるのだ。

序文:ヨルグ・コルベルク
日本語訳文責:奥山美由紀