森田友希 写真展「OBLIQUE LINES」アーティストトーク・展示レポート②

2018年4/14〜4/30の期間、森田友希 写真集「OBLIQUE LINES」刊行記念写真展が開催されました。
オープニングにて行われたアーティストトークの後半部分を記事として公開いたします。
なおアーティストトーク前半にお話いただいたことに関してはこちらをご覧ください。

会期中には作家が滞在制作をおこない、本を一度解体して新たな解釈を提示するために再構成がなされていました。

アイデアは流動的で、終盤には今回の作品の鍵となっている「数式」を通したあらたな提案がされ、その解釈をもとに会場の一つの壁が作品となり、その作品から本が作られていくという、そうした流れになっていました。壁は完成に近づいており、今はそれを本に落とし込む段階、最終日にはその展示と作られるであろうダミーからどういう眼差しが見えるでしょうか。森田さんが兄を通して、写真を通して見ていた世界が本当は何だったのか。それらが1つずつ解かれていきます。

【4月21日までの編集案】
2015年に兄の部屋のゴミ箱から見つかった数式の記された紙。字を見れば兄がそれを書いたことはわかりました。当時2人は同じ部屋で暮らしていました。それをみた時はとても写真的な感覚だったのを覚えているといいます。

©Yuki Morita / OBLIQUE LINES

後日兄にその紙について覚えているかと聞くと、記憶にないと言いました。それから自分なりの解釈でその数式を読み解く日々が始まりました。

数字が並んでいく中で「108」が2つ出てくる。そしてそこからだんだんずれていく。
2つあることに関して兄は間違えたからと言う。打ち消されて間違えられた数字が斜めにずれていき、2つ目の軸を作り出す。その2つの軸は兄の見ている世界を象徴しているようだったといいます。同じ記号なのにもかかわらず違う捉え方ができ、違う段階にある。それが兄の視線そのものだと思えたのです。この紙片を見つけてからより一層その眼差しの先が気になりました。

数式について問い続けていたある日、兄が思い出したように「自分は17歳で変わってしまったんだ」と言いました。17を頂点に数列を組んでみたら、どうなるか記してみたのだと。それを聞いてこの数式は時間の流れを表しているのかと解釈をしました。
17歳といえば、兄に症状が出だしたときでした。母がつけていた記録をみてもやはり彼に大きな変化があったとされています。

さらに兄と話していく中で、印象に残っている記憶はあるかと聞くと、
「学校の帰り道、木立。12歳の頃に「責任」っていう言葉が頭をよぎったんだよね。」と。

「108」「17」「12」
この数字は兄を示す何かにつながるかもしれないと思いました。

兄が見ている世界は、過去とか未来とかの時間軸がなく、混在しているような感覚があります。時おり死後の世界を意識させるように、もうすぐ自分は死ぬと言うこともよくありました。普段の生きている時間軸があると同時に、彼はまた別の時間軸を生きているようでもあったのです。日常(現実)と非日常の混在した時間軸が、バラバラだけれども彼の中には「今」という瞬間しかないような感覚。
それらを写真集へと還元できないかと試行錯誤していました。

一つの案として写真集の108ページ目以降から変化が発生する編集を提案されます。そして母の記録が鍵になるのではないかと。

それに対し森田さんは
「一見すると辻褄の合わないものも兄にとってはそれこそがリアルで、だから(普通の)人が見てわかりやすく変わってしまっていいのかなと思う。わかりやすい変化を作るということは、見る側に押し付けてしまうことになるかもしれない。見る側がもっと観ようとしないと、兄の世界は観れないようなものを目指したい。その微妙な変化に気づけなければ意味がない位のものでもいいと思うのです。」


【4月27日までの編集案】
数式に基づいて作品制作が始まっているのにも関わらず、それまで編集されていた内容ではその数式すべてを表現できていなかったことに気づいたのです。どこか切りの良いところで終わらせてしまっていて、それは枠の中でしか物事を見ていないということと同じことでした。
その先を模索するうち、
会期も終盤に差し掛かった頃、森田さんはもう一つの解釈を導きだします。

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兄のことを異質な存在として見ていたのは、誰でもない、私自身だと気付いた。
兄は異質な存在で、それを理解しようとする私という関係性からそもそも間違っていた。
このことについては、ずっと前から理解していたと思っていた。そう「思っていた」だけで、それが言葉以上に私のなかで核心に迫ってきたのは、ついさっきのこと。

それはやはり他者の言葉であり、さらに言葉にならなくとも語られるもののなかにあった気がする。
異質なものを説明しようとする時、説明することでとりこぼされてしまうものがあるなら、それ以上に説明しようとしなくていい。不可分なものを不可分なものとして受け入れる。

ただ、その境界線は曖昧でかつ流動的で、見極めるのはとてつもなく難しい。
ただ、その線を踏み越えずに、ただ枠の中から見ているのも、また違う。
恐らく今のインスタレーションは、こんな様子が伺えると思います。
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(4月27日 森田)

©Yuki Morita

兄の眼差しの先を捉えるためにしていたつもりのことが、実はそうではなく自分自身から見た兄の印象を提示していたことに気づいたのです。

物心つく頃から兄と一緒に暮らしてきて、兄の異変に気づきながらもそれに関与しない生活を送る日々が続きました。それが一つの軸で、そこから兄の病気のことを知り、兄という存在を追求することで物の見え方の自由さを失っている自分に気づくことになります。兄は何も変化をしていなかったのです。変化していたのは弟である自分自身のものの見方であり、兄に対する印象だったのです。

会場では写真が数式のように並べられています。写真の上に写真が重ねられている部分は兄の眼差しと自分の眼差しの交錯を意味し、兄のことを理解しようとしている、兄に近づこうとしている段階を提示しています。
そしてそれを今写真集へと還元していく作業が続いています。


最新のダミーブックは海の写真から始まります。それは森田さんの兄への一番最初の記憶(印象)だといいます。海の沖の方、遥か遠くから浮き輪をつけてプカプカと漂いながらこちらへ戻ってくる兄の姿。海という大きな存在の中で一人浮かんでいる兄の姿。その時に兄は自分よりもずっと先にいる存在だと認識し始めていたのかもしれないといいます。


写真は直接的な言葉ではなくとも、何かを伝え得る言語ではあります。どの言葉遣いをするかによって伝わり方が異なるように、写真をどのように編集するかによって見え方は幾様にも変わります。
そして作家は伝えようとしていることの本質を最も最善の形で提示する編集を模索しているのです

会期は終了しても、写真集の制作は継続されます。この展示にお越し頂いた方々を含めこの作品に触れた方々、そしてこれからこの作品に出会う方、すべての方へこの作品を見届けていただければと思います。

文責:久光菜津美
編集:後藤由美