“I” is an expression of identity, not the identity itself(Amak Mahmoodianとの最近のやりとりから)

7月に予定されているRPSグラント受賞写真家展で来日することになっているアマク・マホモーディアン。2015年シンガポールで開催された「アジアの女性写真家たち」で公募から作家の一人として選出したのがきっかけで出会った写真家です。彼女はそのとき、展示作品でもあった「SHENASNAMEH」のダミーを持ってきていて、とても感銘を受けたのを覚えています。自分の髪を編んで作られた栞がついており、その本の内容と髪を使うことの意味に深いこだわりを持っているということを感じました。昨年にはSHENASNAMEHは300部普及版出版され高く評価されました。また、RPSが公募から選出して決定するグラントの第14回受賞者として展示をすることにもなり、来日する機会にワークショップを開催することになりました。ワークショップで取り組むテーマはすぐに「アイデンティティ」に決まり、それについて彼女とのやりとりが始まりました。そのワークショップをする上でアマクが考えている「アイデンティティ」とはどういうものなのかということをみなさんにも知って頂けるといいのではないかと思い、ここにご紹介します。

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「私」とは、アイデンティティの現れであり、アイデンティティそのものではない。

「伝統的に、『アイデンティティ』は個性をほんのはずかしか反映しない確固たるラベル(分類のありかた)として考えられてきた。」(Frabule、1997年) これは人々の「アイデンティティ」の定義を求める社会的構築主義の研究に由来するものかもしれない。「アイデンティティ」のコンセプトは、明らかに流動的である。それは多面的であり、個々で異なっている(Frabule、同書)。彼/彼女ら自身、その価値、意見、社会の中での役割を対象の人々に懸念させるこの「アイデンティティ」の発展とは何であろうか。

「私」とは、アイデンティティの現れであり、アイデンティティそのものではない。それは不明瞭な感情であり、アイデンティティの啓示である。故に、「私とは誰か」という問いは常に叙述へと変化する。なぜなら、推定され、明示されるアイデンティティとは、象徴的なものだからだ。実際、ニーチェ8によると、人はいつでも彼/彼女が未だになっていない誰かになるべきものなのだ。社会的アイデンティティは、外側と内側の世界、そして個人的および社会的な世界の間に繋がりを作り上げるべきものなのだ。

アイデンティの主題というのは、一つの反応のように常に変化し続ける関係性につながっている。そのため、異なる条件を与えるには、異なるアイデンティティが必要になる。一人の「私」を囲んでこのアイデンティティを作ることはもう不可能になってしまったのだ。我々一人ひとりの中には、異なる方向に向けられた矛盾するアイデンティティが存在する。アイデンティティというものは、それが実際に結びつきを持ったり、我々に関連付けられる以前に、他者の解釈に関連しているものなのだ。実際にそれは、我々が創りだした意味に於いて、我々を受け入れるあるいは拒絶する他者なのである。

人それぞれの個性の解釈は、彼/彼女の社会的地位に基づいており、それぞれが置かれた文化を明らかにする。「インサイダー」としての私自身の経験から言うと、職業や政治支配からの観点だけでなく、彼女たちは誰かという観点から、イラン社会の中で女性は底辺に置かれている。これが、真のアイデンティティとは何か、ヴェールとスカーフを突き通すイラン女性のイメージとは何かを考える私のプロジェクトにつながっている。

私の名前はアマクです。1980年にシーラーズで生まれたイラン人です。イギリス在住で、フォトグラファー、映像作家、キュレーターをしています。私の作品はアイデンティティとは何かを問いかけ、また広義の問題へと関連していく個人的なものを表現しています。
私にとって、写真の特質とは真実を語るものです。写真はマジカルで、多くの謎に満ちています。私は自身のプロジェクトを通じて自己のアイデンティディを探っており、それぞれのプロジェクトは私の人生、内なるそして外なる旅の一つの章なのです。

Untitled2アマク・マホーモディアン
日本語訳文責:奥山美由紀

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実験的ワークショップアトラスラボ「アイデンティティを視覚化する」参加申し込み受付中(※4/30締め切り、先着順決定)

「作品例」
Who am I? Multi Screen Videos, 2010, Iran
Who am I?  マルチスクリーンビデオ、2010年、イラン

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ラーナは若くて美しい19歳だった。 カメラの前に座った彼女は沈黙のままだったが、この長い沈黙は最大の叫びでもあった。私は今でもラーナとその沈黙を覚えている。私の町にはラーナのような女性、沈黙の中にはっきりとした声を持つ女性が多くいる。

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ナシルプール 1分ですら長い時間のようだ、、、